期 間: 2002年10月9日(水)〜11月3日(日)
ロブチェ・ピーク隊メンバー 隊長 木下 荘
(順序「山水友の会会報」掲載順) 渉外 辻 斉
総務 藤田浩仁
隊員 能登善徳
谷 靖夫
北尾勝正
脇屋龍人
豊島節子
市川昌興
以上9人
『ロブチェ・ピーク日記』
富山県黒部市に本拠地を置く「山水友の会」を主体とする「2002 ヒマラヤ3隊同時出発遠征隊」ロブチェ・ピーク登山隊に、私が所属する「関西山岳会」から3名が参加した。
昨年のアイランド・ピーク挑戦から帰国してすぐ、今回の山行を計画、同行者・同行グループを探していたところ知人の紹介で「山水友の会」との合同登山が実現した。
「2002 ヒマラヤ3隊同時出発遠征隊」はトレッキング目的のカラパタール隊8人、タンボチェ隊4人、登山が目的のロブチェ・ピーク隊11人合計23人。この内ロブチェ・ピーク隊の2人は途中で別行動となったためロブチェ隊の実動隊員は9人であった。
ロブチェ・ピーク隊の年齢は51〜71歳、平均年齢は62.9歳。この高齢化集団のうち6人が10月24日午前9時、ロブチェ・ピーク6119Mの登頂に成功した。
今回の成功は高度順応がうまくいったことだろう。のんびりし過ぎている、と思った計画時の日程が、身体つくり、高度順応に大いに役立つこととなった。それに加えて「山水友の会」代表の辻 斉 氏のもとに優秀なスタッフが集まり、隊の行動が計画通り進められたことだ。
一方、考えさせられることの多い山行でもあった。高所での長期にわたる登山活動は厳しいもの。もともと登山は厳しいスポーツ。まして、ヒマラヤの高所での長期に亘る登山活動、当然のことながら生活環境には大きな制約がある。協調性も、自らの感情をコントロールすることも必要になってくる。厳しい環境の中ではなかなか難しいことではあるが・・・。”ヒマラヤへ行く”と言った言葉に惹かれ観光地へ出掛けるような軽い気持ちで出掛けては大いに当てが外れることになる。このことは、隊員一人一人はよく認識していると思っていたが、慎重を期すべきであった、と改めて考えさせられた遠征であった。関西空港からネパールへ直行できる。ヒマラヤが近くなった弊害だろう。
10月9日(水)晴れ 関西国際空港へ
自宅から高田駅まで車で送ってもらう。7:44発、9:19関空到着。富山県勢はすでに集まっている。10:00チェックイン。ネパール国内の政情不安、日本の景気低迷を反映して乗客は少ないだろうとの予想に反して機内は満席の状態であっった。
給油のために上海を経由してネーパール・トリブバン空港18:40(現地時間21:55)到着。空港は改装工事が完了して見違えるように綺麗になっていた。が新たな器にソフトウェアーが追いつかないのか入国審査に随分時間が掛かる。
空港に昨年世話になったディリップ氏が出迎えてくれる。政情不安を反映して空港の出入りは特別の許可証が必要だとか。今夜の宿「ホテル山水」へ23:10到着。
10月10日(木)晴れ カトマンズ滞在
朝食前にホテルから20分ほどのボダナート寺院へ登山の安全祈願に出掛ける。「オムマニペメフム」と言う真言が刻み込まれたマニ車を回しながら、ネパール最大のストーパ(仏塔)の周りを右回りに多くの参拝者がゾロゾロと歩いている。なかには地面にひれ伏しながら進む五体投地礼で回る人も見受けられる。
ネパールの基本的家庭料理であるダルバートの昼食をとった後、16:00まで自由行動。脇屋氏と私はタメルにあるディリップ氏の事務所を訪問する。事務所には昨年、一緒だったチェルパが居た。最近はお客が少なく手持ち無沙汰の様子だが、自宅に居ても仕事がないのでここに来て待機しているようだ。街は政情不安を反映して警官の姿が多く見受けられる。ホテル帰着16:40。
10月11日(金)晴れ カトマンズ〜登山基地ルクラ〜パクディンへ
起床4:50朝食後ルクラへ飛ぶためマイクロバスでトリブバン空港へ向かう。飛行場入り口にはループ状に巻かれた大きな有刺鉄線が道路上に置かれ兵隊が飛行場への入場者・車を厳重にチェックしている。昨年は見られなかった光景だ。国内線の待ち合い所は相変わらずの大混雑。男女別に仕切られた間仕切りのなかでボデェーチェックを受け搭乗ロビーに入いる。昨年はここで随分待たされたが、今年はチャーター機のためか、すぐに搭乗予定の飛行機のそばまでバスで運んでくれる。飛行機は昨年同様YetiーAirlineのツインオッター19人乗り、8:30分離陸、快晴、ヒマラヤの峰峰が眼下に広がる。今年で3回目だがいつ見ても美しい、ヒマラヤに戻ってきたなー、との実感が湧いてくる。標高2886mの登山基地ルクラの飛行場へ9:05到着。 昨年は工事中だった飛行場は滑走路を含めてすっかり新しくなっていた。昨年、一昨年は飛行機が到着する度に飛行機の回りに群がりよってくる付近の住民、ポーター達を警官が必死に整理する光景が見られたが今年は滑走路の周囲に金網が張られそのようなこともない。
TASHI DELEK LODGEで昼食。12:20いよいよキャラバンの開始である。昼食中に聞いた話では村のはずれで警備兵が一人50ルピーの通行料を徴収しているとのことであったjが、その様子はなく無事に通過する。後で分かったことだが料金を徴収していたのは警備兵ではなく個人が勝手に料金を徴収して持ち逃げしていたようだ。治安が悪くなると悪党も横行するようだ
今夜の幕営地パクディンに15:50到着、キャンプサイトは橋を渡った右岸にある。6:00からキッチンテントで夕食。献立はフライドチキン、ナム、野菜サラダ、味噌汁、デザートにりんご。食事は昨年とは大違いデライ(とても)ミート(おいしい)チャ(です)。
10月12日(土)晴れ パクディン〜ナムチェバザールへ
6:00起床7:00食事8:00出発。今後はこの時間割が行動パターンの基本となる。
一行はトレッキングを目的とするカラパタール隊、タンボチェ隊、登山目的のロブチェ隊総勢23人、シェルパ・ポーター総勢27人、荷運びの動物ゾプッキョ(牛とヤクとの間の混血の雄)13頭、大部隊だ。名前の発音が似ているところからジャガイモと名ずけたシェルパと道中お互いに、ネパール語・日本語の勉強をしながらゆっくり、ゆっくりと進む。私の名前木下はネパール語で「ルフムニ」、以後、ルフムニと呼ばすことにする。
急坂を登って15:20ナムチェバザール到着。入り口で警備兵1名にチェックを受ける。これも昨年はなかったこと。高度順応のためには、じっとしているより出来るだけ身体を動かした方が良い、テントサイト到着後すぐに谷氏を誘ってゴンパの少し上まで足を延ばす。山の上からナムチェバザール全体がよく見える。昨年、一昨年は色とりどりの多くのテントがロッジの庭に見受けられたが今年は空き地が目立つ、、これも国内の政情不安と世界的な不況のせいなのかもしれない。PARADIS
LODGEの庭で幕営。
10月13日(日)晴れ ナムチェバザール〜エベレストビューホテル往復
今日は高度順応のためナムチェ滞在。エベレストビューホテルを往復lする。8:30出発。昨年は、自らに負荷を掛けて見ようとホテルまで駆け上がり体調を崩してしまった。今年はその経験をいかして、ビスタリ(ゆっくり)、ビスタリで登る。ホテルでコーヒー、ビールそれぞれ好きなものを飲んでテントサイト帰着12:50。午後はチベッタンバザール、土産物店をひやかして過ごす。チベッタンバザールは昨年までは土曜日の午前中だけ開かれていたはずで、その時も売り手は手持ち無沙汰に寝転がっていて、とても繁盛しているとは思えなかった。それがバザールのスペースも広くなり毎日開催となっている。相変わらず売り手は手持ち無沙汰の様子、これで商売になるのかと不思議だ。
夕食時、カラパタール隊の谷口氏68歳の誕生祝いと明日から別行動となるタンボチェ隊のお別れパーティーを併せて行う。コックが見事なケーキを焼き上げ、料理はスープ、ゾプッキョのステーキ、ヌードル、ジャガイモ、野菜の煮込み、茄子の煮込み、ご飯、デザートとなかなか豪勢、ロキシーも出て大いに盛り上がる。谷口氏にとっては印象に残る誕生日となったことだろう。
夕食7:00。20:30就寝。
10月14日(月)晴れ ナムチェバザール〜キャンジマへ
7:00朝食、8:30出発。ナムチェを出て30分エベレストが望まれる絶好の撮影ポイントに到着する。快晴、素晴らしい景観にみんな盛んにシャッターをきっている。
10:40テントサイトに到着。昼食後、日本の各県から寄贈した学校が建っているクムジュン村に出掛ける。村は立派な建物が多く裕福そうだ。、聞けばエベレスト街道でロッジを経営しているシェルパ出身の人達の自宅が多いとのこと。学校は広大な敷地に建っていた。富山県から寄贈したセカンドリーハイスクールと診療所、ヒラリー基金によるハイスクール、松本ヒマラヤンクラブによるHOSTELなど。立派な建物だが最近は村の人達が裕福になり子供達をカトマンズの学校に通わすようになって、生徒数は年々減ってきているそうだ。時代の変化とともに、折角寄贈した建物もその役割を終えようとしているのかも知れない。
それにしても子供達を全く見かけない、聞いてみると明日15日を中心に「ダサイン」と言うネパール最大のお祭りで約1ヶ月お休みとのこと。テント帰着15:25、就寝8:00。
10月15日(火)晴れ後曇り キャンジマ〜タンボチェへ
8:00出発。12:00タンボチェ。タンボチェ入り口から正面にエベレスト、ローツェ、ヌプツェが雪煙をあげている。13:40から高度順応を兼ねて近くのタンボチェピークへ登る、天候が怪しくなってきたので4100M地点から引返す。登り口近くにヘリコプターが着陸し高山病に掛かった1人の外国人を運んでいく。4〜5日前には日本人がやはり高山病で亡くなったとのこと。われわれトレッキング隊の中にも高山病の症状が出てきている人がいるので気掛りだ。
夕食時辻氏から、これまでは総隊長が仕切ってきたが、タンボチェ隊が別行動となったため今日からロブチェ隊の隊長に仕切ってもらう、との紹介で木下からあいさつ。続いてクライミングガイド以下スタッフ全員に隊員を代表して私から「ダサイン」のお祭りのご祝儀を一人一人に手渡す。今夜の夕食も豪華。就寝20:00。
10月16日(水)晴れ タンボチェ〜パンボチェへ
8:00出発、。出発前、カラパタール隊の一人が高山病のため残念ながら下山することになった。出発前みなさんにあいさつしてシェルパ一人と残る。12:00パンボチェ到着。午後プラシェルパと二人で裏山、4616Mの地点まで登る。今回はアッタク日を見据えて意識して高度順応に務める。登る途中、ヤクを追っている子供の牧童に会う。石を挟さんだベルトを振り回して石を遠くに投げヤクを追っている。その投げ方をやらしてもらったが、思う方向にはなかなか飛ばない。子供は器用なものだ。自由にベルトを操ってヤクを追っている。
テント帰着17:30。夕食18:30。
10月17日(木)晴れ パンボチェ〜ディンボチェ〜ナンガゾンピーク往復
8:00出発。途中、辻氏が「木下さんは昨日4616mまで登っているので今日午後からは5100mのナンガゾンピークへ登られたら」と声を掛けてくれる。ディンボチェ12:30到着。テントサイトから昨年登頂した懐かしいアイランドピークが望まれる。
ナンガゾンピークは明日全員で登る予定だが高度順応のために1日でも多く動いた方が良いとの判断で午後、14:20テント出発、辻氏に出掛ける旨、声を掛けプラシェルパと二人でナンガゾンピークを目指す。
出発前に「今日はピークを目指す。ただし、時間切れになれば、その時点で引き返す。遅くとも夕食前には帰着する。途中で調子が悪くなったらその時点で引き返し無理をしない」ことをプラシェルパに告げて14:15テントサイトを出る。16:40登頂。16:45下山に掛かる。テントサイトのすぐ上に18:00帰着。サーダーのインドラが迎えに来てくれている。「夕食は?」と聞くとまだだ、との返事。ほぼ予定通りだ。と思った瞬間、インドラが「辻氏が心配してシェルパ一人を連れて探しに行っています」と言う、聞いてびっくり。前日も17:30帰着、また、これまでの夕食時間からみて夕食前に帰ればとの判断で出掛け、帰着予定時間を明確に辻氏に告げなかったことが、みんなにご心配、ご迷惑を掛ける結果となってしまった。反省。9:00就寝。
10月18日(金)晴れ、全員ナンガゾンピーク往復
起床5:30。8:30出発。今日は昨日の影響なのか体調いまひとつ。高所での生活が長期にわたると、その日によって体調が大きく変わる。高度順応を含めて体調維持の難しさを改めて痛感する。
今日は全員がナンガゾンピークに登り高度順応に務める予定。途中まで、あるいは山頂まで、それぞれの体調に合わしてナンガゾンピークを登り11:50テントに帰る。午後は、脇屋氏と二人で来年関西山岳会で派遣を予定しているパルチャモの情報をシェルパから収集する。
10月19日(土)晴れ ディンボチェ〜トクラへ
昨夜はシャワー状態の下痢で悩まされる。このようなひどい状態の下痢は久しぶり。一過性の下痢ならばいいが、と不安になる。正露丸、抗生物質を飲む。
トクラへの途中、岩陰でキジ撃ち1回。トクラ12:00着。トクラは川を渡った右岸に2軒のロッジがある。下のロッジにカラパタール隊、上のロッジにロブチェ隊のテントを張る。昼食時、何か食べなければ、と思い食べ物を無理に口に押し込むが吐きそうになり慌てて口をおさえる不安がつのる。午後、何人かはAIWAピーク付近に出掛けたが小生は沈殿
10月20日(日)晴れ トクラ〜ロブチェへ
8:30出発12:40ロブチェ着。下痢の状態は少し良くなった様子。昨日の沈殿が効果的だったようだ。早く回復してほしい。ロブチェテントサイトに到着後、前のモレーン付近を散歩。
10月21日(月)晴れ ロブチェ〜カラパタール往復
4:15、ロブチェのテントを出発。体調は大分復調してきているようだ。ゴラクシェプ6:40着ロッジで一服してカラパタール山頂を目指す。
カラパタール隊は左のルート、ロブチェ隊は右のルートを辿る。私はロブチェ隊のメンバーから大分遅れて歩き始める。歩き出すと高度順応の成果なのか徐々に調子が出てくる。調子がよさそうだ。自分に負荷を掛けてみようと思いピッチをあげる。先行していたメンバーが休憩しているところに追いつき、その後メンバーと分かれて先行する。エベレスト4回登頂のスーナムシェルパもついてくる。途中で先日も出合った農大学長パーティーに出会う。先頭を歩いている学生は来春のエベレスト遠征隊メンバーだそうだ。外国人のトレッカーも多い。スーナムシェルと二人でジグザグのルートをショートカットで外国人トレッカーを抜いてどんどん登る。黒い岩の山頂5545mに9:00登頂。二人で記念写真を撮って下りに掛かる。登ってくる他のメンバーと出会ってしばらくした場所で、他のメンバーを待つようスーナムシェルパに指示して一人で下る。10:20ゴラクシェプのロッジに到着。
全員集結するのを待って帰路に着く。カラパタール隊も全員登頂を果たし喜んでいる。15:00テントサイト着。夕食前に辻、藤田、能登、木下で今後の行動予定について打ち合わせ、引き続いて辻、木下でアッタク日のザイル編成メンバーについて打ち合わせる。
10月22日(火)晴れ ロブチェ〜BCへ
登頂を果たしたカラパタール隊を8:00、一人でゴーキョへ向かう鈴木氏を9:00に見送ってテントサイトを12:45出発。いよいよロブチェ隊だけでベースキャンップへ。BCは高度約4800m広い場所にはわれわれのテントだけ。
夕食時、明日ハイキャンプに上がることを決定する。
10月23日(水)晴れ BC〜HCへ
7:00モーニングティー、8:00食事、10:00ハイキャンプ荷上げ荷物の集荷。BCに1名残留、8名がHCへ12:20出発。14:35、HC高度5163mに到着。
出発準備中の10:00過ぎスタッフを含め総勢40名程度の欧米人のパーティーが下山してくる。隊員11名中10名が登頂成功。午前2:00に出発、10:00に登頂とのこと。
10月24日(木)晴れ 頂上アタック
午前1:30頃目覚める。HCへはキッチンボーイが上がってきていないためクライミングガイドが2:20頃モーニングティーと朝昼の行動食を運んできてくれる。朝食は無い予定であったがジャガイモの甘煮も届けてくれる。
脇屋氏の調子が悪い。昨夜は一睡もしなかったとのこと。メンバーに迷惑が掛かっては、とアタックを辞退される。昨年に続いての断念で誠に残念。谷氏も頭が痛いと言う。身支度の動作も緩慢で調子が悪そうだ。彼はこれまでも時々頭が痛くなったがすぐ回復していたので大丈夫だろう。3:00の出発予定が3:20、ハーネスを身につけ暗闇の中をヘッドライトの明かりを頼りに出発する。
HC出発約1時間後、アイゼン装着、アンザイレンする。トップはスーナムシェルパ、彼はこれまで主に英国隊と9回の遠征に参加、4度のエベレストサミッター。続いて木下、北尾、タッシシェルパ、谷、ダワシェルパの順。トップの若いスーナムシェルパは早いピッチで登っていく、谷氏が少し遅れ気味、「ビスタリ」(ゆっくり)「ビスタリ」とトップを抑えながら登る。第一岩帯の隙間を抜けて登り続け、ようやく傾斜の少し緩くなった第一ステップに到達、ここで写真を撮る。
第2ステップを過ぎて雪壁の下に到達。アンザイレンを解き、長い休憩をとる。シェルパ達は雪壁のルート工作に向かう。これから長い、長いフィクスロープとの戦いが続く、山頂まで400m。戦いに備えて小便をする。ハーネスを着け、タイツを下に穿いているので小便をするのも大変だ。アッセンダーをフィックスロープにセット、木下、北尾、谷の順番で登り始める。昨年のアイランドピークの雪壁よりアイゼンは効くが苦しさは変わらない。カラビナの架け替えで不自然な姿勢に身を屈めると一層苦しい。必死に上を目指すが、登れども登れども稜線が見えてこない。登るのが嫌になった頃他のパーティーの人影が見え、雪面を這い上がってAM9:00ようやく山頂へ到達する。所要時間5時間40分、2日前の欧米人のパーティーが8時間かかったことを思えば相当早いスピードで登ったことになる。苦しいのは当然だ。北尾、谷氏が続き最後にわれわれとは別のザイルパーティーであった能登総隊長が這い上がってくる。
10:00まで山頂に居たが、最後に登ってきた能登氏が他のメンバーは途中で引返しただろうとのことなので下山に掛かる。フィクスロープにエイト環をセットして懸垂下降で下る。驚いたことに途中で引き返したと思っていた辻、藤田、プラシェルパのパーティーが登ってくるのに出会う。藤田氏が相当弱っているようだ。足元がふらふらでプラシェルパに支えられている状態だ。この状態で、まだ山頂を目指すと言う。凄まじい根性だ、この根性は若いときに身体にしみ込んだものなのだろう。登ろうとする本人も本人だが、登らそうとする辻氏も相当なものだ、と思ったが、われわれが雪壁下で待っていると、山頂を踏んで何気ない顔で降りてきたのには再びビックリ。後で聞くと藤田氏はテントを出発した直後から下痢が始まり本人の言によると「クソまみれになって登った」、ようだ。プラシェルパが「藤田さんに付いて登る時臭くて臭くて」と、本人には内緒にして下さいよ、と私に囁いたのを聞くと、かなりなものだったのだろう。
市川氏は残念ながら途中でリタイヤ。BCへはのんびりと下る。時間は早いし、もう登らなくていい、と思うとダラダラと登頂の余韻を楽しみながらBCへの道を辿る。帰着は私が最後で15:30。脇屋氏、サーダー、シェルパ、が「登頂おめでとう」と声を掛けてくれる。ありがとう。疲れ果てているとそれぞれの人の気配りが一層身に沁みる。
夜コックの焼いてくれたケーキで登頂祝賀パーティー。みんなで登頂を喜び合う。
10月25日(金)晴れ ロブチェBC〜パンボチェへ
15:25パンボチェ着。今日でクライミングガイド4人とはお別れである。ガイドの一人ダワシェルパが経営するロッジでクライミングガイドとのお別れパーティーを開く。みんなを代表して私からお礼のの言葉を述べ、辻氏と一緒に登頂のボーナスをガイド一人一人に手渡す。
「サバイザナ、レ、ハメナルライ、
デレ、マザート、デレ、ガヌバヨ
デレ、ダンニャバート、
アンムロマヤコ、チノ、
ツォルナ、ツァハンツ」
「みなさん、われわれを助けてくれて、ありがとうございました。
ここに私たちのお礼の気持ちを込めて、これを差し上げます」
ネパール語でお礼の言葉を、lと思い練習したがうまく表現できずに失敗、残念。 久し振りのアルコールで隊員全員クライミングガイドとともに別れを惜しむ。
10月26日(土)晴れ パンボチェ〜テシンガ
6:00起床。7:00食事、9:00出発。
朝、庭に出てみるとスーナムシェルパが赤い布の小さな包みを、お土産にとそっと手渡してくれる。彼がエベレスト登頂を果たした時に持ち帰ったエベレスト頂上の石である。昨夜もアルバムから剥がしてきた跡のあるエベレスト登頂の何枚かの写真を、全部くれると言うのを辞退し、頂上の写真だけをもらったところである。彼の好意が嬉しい。
出発前にダワシェルパ一族によるお別れの儀式でカタ(安全を祈る布)を肩に掛けてもらい安全を祈ってもらう。
出発準備が整うまでの間に植村直己が常宿にしていたと言うすぐ上のロッジを訪れ、彼のサイン入りの碁盤、加藤保男が残したオーバー手袋などを写真に収める。テシンガ15:35着。
10月27日(日)晴れ テシンガ〜モンジョへ
モンジョ16:10着。明日はポーター達ともお別れである。夕食時お別れパーティ。ポーター達にとっては約1ヶ月振りに仕事から開放されるとあって、みんな酒に酔い、ネパールダンスを舞う。最後に私が日本から用意していった歌詞を手に日本側隊員が山の歌を何曲か合唱し別れを惜しむ。コック、キッチンボーイ、ポーターのみなさん本当にありがとう。ご苦労さんでした。
10月28日(月)晴れ モンジョ〜ルクラへ
8:10出発。途中北海道山岳連盟の遠征隊に会う。道端で小さな籠に入れて子供達が桃を売っている。日本の桃と違い小さな桃で、しかも落ちた桃で、2個1ルピー、を買って食べながらのんびりと下る。15:25ルクラ到着。
10月29日(火)晴れ ルクラ〜カトマンズへ
6:00起床、8:30宿舎を出発。出発前にスタッフ一同に長い間ご苦労さん、とお礼のチップを一人一人に手渡す。
空港待合室ではいつも通り長時間待たされる。荷物のチェックはダッフルバッグの鍵を開けて厳重に調べられる。12:30ようやく飛行機が飛び立つ。13:10約1ヶ月振りにカトマンズ空港に降り立つ。何となく懐かしい。
14:00ホテル山水に帰ってくる。昼食にラーメンとビールが出る。これが旨かった。日本ではこんな取り合わせで食べることは滅多にないが、気分的にホットして何物にも代えがたい味に感じる。窓の外を見るでもなく、何となくぼーと眺める。ビールの酔いが心地よい。帰ってきた、との感慨が胸に広がる。みんなが引き上げても辻氏と二人でひと時を楽しむ。続いて入った日本風呂がまた、忘れられない。約1ヶ月振りの風呂だ。両手の指はアカギレで、ひび割れている「この垢は2〜3回の入浴では落ちないなー」と言いながらゴシゴシと洗う。湯船に入った瞬間、身体中に広がった心地よさはいまでも身体に甦る。
10月30日(水)〜11月2日(土) カトマンズ滞在
30日=昼は脇屋、市川、木下3人でタメルの雑踏をうろつく。夜は辻氏を紹介してもらい今回の登山を実現する際に大変お世話になった石垣照司氏をお誘いして辻、脇屋、両氏と私の4人で会食。石垣氏は1997年、ネパールに移り現在もネパールの「カトマンドウ日本語学院」の教師をご夫妻でしておられ「カトマンドウ日本語学院」の校舎建設に大変尽力された方で、ネパールの日本語の普及に大きな貢献をされている、昨年(2001年)一昨年(2000年)の登山で世話なった、現在エージェント社長のディリップ氏もこの学院の出身で、この学院出身のシェルパは多い。
31日=ディリップ氏の案内でエベレストサミッターの写真が階段の壁一杯に飾られているホテル「GARUDA」などを見て回る。
11月1日=5:30分起床、6:00石垣夫妻と乗合タクシーTEMPOOに乗っ「カトマンドウ日本語学院」へ、学院でご夫妻の授業風景を見学し、学生達と日本の歌を合唱し交流を深め楽しいひと時を過ごす。夜はディリップ氏の長女リッチャーの3歳の誕生祝に自宅に招かれ親族一同とパーティ、中にはチョー・オユー登山経験のシェルパの叔父さんもいて貴重な話を聞くことが出来た。ホテルへの帰路、警備の兵隊に3度ほど止められ尋問を受ける。夜の街の警戒は相当厳重だ。
2日=23:45ネパール空港を発ち日本へ。
3日=11:30定刻通り関西空港着。お世話になったみなさんにお礼を言って解散。こうして今年のヒマラヤ登山は終わった。
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